謎に思わないのかねぇ?
週刊誌のグラビアを見てたら、篠山紀信が市川海老蔵を撮り下ろしてた。
舞台姿はもちろん、楽屋の様子も撮影してた。
その中に、京都・南座の楽屋の海老蔵のとこへ、舞妓さんたちが訪ねてきてる一枚があった。
キャプションが入ってて、そこに「かんざしにサイン」ってあったんだな。
この言葉、パッと聞いて、状況が頭に浮かぶだろうか?
「かんざしにサイン」って……どこに、どうやって、するんだ?
文字で読んでも、ぜんぜん状況が頭に浮かばないと思う、普通は。
写真を見ると、「かんざし」には違いないけど「まねきかんざし」だった。
京都・南座の正面に、顔見世興行に出る役者の名前を書いた看板──「まねき」が上がると、師走の合図。
そして、この興行を、祇園の綺麗どころが揃って観に行くのが「顔見世総見」。
このとき、こども(舞妓)や姐さん(芸妓)たちが髪に挿していくのが「まねきかんざし」なんだそう。
南座正面の看板と同じような、名前を入れられる長方形の板(?)を2枚あしらったもので、人気のある名題役者、有名どころに名前を入れてもらって、その人気にあやかろう、というものであるらしい。
だから、人気役者の自分を名指して来てくれる舞妓さんたちのために、海老蔵が名前を入れているところ──というのが、この写真の意味になる。
それを「かんざしにサイン」なんて言葉で片づけるのって、いかにも情緒が無くはないか?
南座ならではの「まねきかんざし」に名前を入れる海老蔵、とかさ。
ほかに言いようはあるだろうに。
写真の説明にすらなってない「かんざしにサイン」をキャプションとして付けちゃう記者も記者だし、通しちゃう責任者(というのかな。最終的に原稿をチェックする人っているはずだよね)も責任者だと思う。
もともと、語彙も豊富じゃないし、客観的に物事を描写するのが下手な私は、何かの事象を説明するための文章を書いたり、話したり、というのが、すごく苦手だ。
それだけに、いろんなモノ(写真とか記事とか含む)についてる説明文には、どうしても目が行ってしまう。
記事書きと小説書きとは、おのずと得意とする方面は違ってくるだろう。
記事書きであるプロの記者やライターが書いた説明文には、構成や語句の選びかた等、小説書きの端くれにぶら下がってる私にとって、学ぶべきところが多いはず。
だから、ついつい目が行ってしまうわけなんだけど……
この写真で「かんざしにサイン」はないんじゃないかねぇ。
「ん?」って引っかかっちゃうようなキャプションつけて、どうするよ?
それとも、写真のキャプションなんて、普通に読みすごしていっちゃうものなのかなぁ。
こういうところに気を遣う記者さんの文章のほうが、結果として、解りやすく、読みやすくなるのでは……と思うのは、私の偏見だろうか?