些細だけど、気になること
今朝の新聞を読んでて、ちょいと気になった。
某新聞に「天声人語」というコラム欄がある。
記者としての実経験を積み、論説委員になった人たちが書いているそうだ。
で、今朝のこの欄を読んでいて、ちょいと引っかかった箇所がある。
秋葉原で無差別連続殺人事件を起こした犯人の初公判があったことを受けての文章だった。
そのなかで、無差別殺人が起きる理由について述べた部分があったんだが──
全国で去年に起きた殺人事件は戦後最少になった。
皮肉なことに、ネット社会で人間関係が希薄化したのが一因という可能性があるそうだ。
特定の相手への動機が生まれにくい。
そうなったで今度は、「誰でもよかった」が目立っている。
(2010.1.29. 「天声人語」より抜粋。句点で改行)
一度はサラッと読みながしてしまったんだが、ふと引っかかった。
引用4行目の頭の部分に引っかかったのだ。
この表現、前文を受ける場合には、「そうなったらそうなったで」という成句(?)で使わないだろうか?
「そうなったで」だけでは、ちょいと意味が通りづらい。
決まった文字数に論説文を収めようと思うと、削れる語句は削れるだけ削らねばならない、というのは理解できる。
でも、だからって、成句として通用してる語句の前半分を省略するってのは、乱暴すぎないだろうか。
「そうなったで」ではなく、「そうなると」って言葉を使えば、引っかかりもなく読めるし、文意も通じるだろう。
もちろん、論説委員まで務めている筆者だから、語句の使い方にはこだわりがあるのでは、と好意的に理解することは可能だ。
だが、それはそれとしても、この場合は無神経な言葉の使い方ではないか、という気がする。
以前にも、この欄で無神経な言葉の使い方を読んだことがあった。
俳優・森繁久彌氏が亡くなられたとき、
「多くの後輩たちの弔辞を読んできた老優が、ついに自分が読まれる側になってしまった」
というような文章があったのだ。
これが何だか失礼な言い方に感じるのって、私だけかなぁ(悩)
森繁氏が、ご自分の息子さんや後輩たち、久世光彦氏のような仕事仲間たちを、どのような気持ちで送ってきたのか、芸能界には疎い私だって聞きおよんでいる。
まぁ、私の場合、久世氏の著作のファンだったせいで知っていたってのがあるかもしれない。
けど、それと同じくらいの当たり前さで、長年、新聞記者を務めてきた人物ならば、自分よりも若い人たちを次々と見送らなければならなかった老翁の気持ちぐらい、斟酌できないものか……とも思うのだ。
娘が中学を受験するとき、論説文を学ぶには「天声人語」を何本も読むのが良い、と塾で言われた。
高校入試、大学入試でも取りあげられている。
たしかに、文章の完成度は高いかもしれない。
でも、語句の使い方や、文意の読みとらせ方には、微妙な難があるような気がしてしまう。
考えすぎかもしれないんだが……そういう気がしてしまうのだ。