時代が違う、第一、人間が違う
頭じゃ解ってんだけどね。
子どもと私は別人格だ。
私は、自分の過去や夢を子どもに投影するつもりはないし、子どもにだって、私の言うことばかり聞いててほしくはない。
それを踏まえたうえで、やっぱり「根性が甘い」って思っちゃうんだから、親という生き物は度し難いものだと思うわけだ。
娘。
学習雑誌を読んでて、「12歳の文学賞」受賞者に、しょこたん(と堀北真希)がエールを送ったという記事を見つけた。
んで、いたく感銘を受けたらしい。
自分も、次回の「12歳の文学賞」に応募したい、なんぞと言い出した。
構わんよ。
やりたいことは、なんでもやってみようや。
だけどさ。
「だから、かあちゃん、原稿用紙ってない?」
とは、どういうことだ?
おまえの「書きたい」は、その程度なのか?
小学校2年生にして、「おはなし書く人になるの」と決めた貴様の母は、ノートの切れ端だろうが。自由帳の片隅だろうが、教科書の端っこだろうが、どこもかしこも文字で真っ黒く埋めていた。
ひたすらに書きたかった。
何を書くと決めていたわけではない、それでも、ただひたすらに書きたかった。
娘。
「ものを書く」とは、そういうものなのではないか、と母は思う。
思いこみだと解っているけれど、それでもなお、そう思うのだ。
少なくとも、原稿用紙を手にしなければ書き出せないような「書きたい」は、私が知っていた「書きたい」ではない。
時代は違う。
娘と私とでは、人間そのものも違う。
それでも敢えて、母は言う。
本当に「書きたい」のならば、そのへんの紙切れにでも書きつけていけ。
形になっていなくても構わない。
ただ、書いていけ。
娘が心から「書きたい」と思うようになれば、私に原稿用紙の所在など尋きはしないだろう。
ワープロに移行して以来、使ってなかった原稿用紙の束を娘の手に乗せながら、私はそう思った。