なぜ疲れるのだろう

 
 未曾有の被害がいまだ拡がりつづけている、東北地方太平洋沖地震が起きてから、2週間が経とうとしている。
 最初のうちは、地震被害が伝えられ、それから津波の被害が、そして今では原発関連の被害が大きくクローズアップされ、報道されている。
 私の住居は中日本だから、直接の被害はない。
 被災地に住む友人に援助物資を送ろうにも、店頭に物がなくて困惑するぐらいが関の山だ。
 しかも、これに関しては、いつもより多くの店を回れば解決する問題なんだから、被害というほどのものではないだろう。
 それでも毎日のように、新聞に掲載される写真(被災地の様子を「これでもか」とばかりに強調したように見えるもの)や、テレビから流れてくるニュースに晒されていると、だんだん疲れてくるような気がする。
 それらの情報をすべて遮断してしまえば良いのだろうが、被害地域に住んでいる親戚や友人のことを思うと、情報を取り入れずに済ますということはできない。
 また、実際に被災されたかたがたに比べれば、普段どおりの生活を送れているだけでも感謝するべきだという事実を忘れないためにも、二次、三次の災害が起きていることは認識しておくべきだろう。
 そうした認識をしつつ、自分にできることを探して毎日を送っているわけだが、なんだか、ひどく疲れる。
 私に比べたら、随分と繊細で感じやすい友人から、毎日のように電話がかかってきて、
「何もできない自分がつらい。苦しい」
 と訴えてくるのを聞くのにも疲れてきた。
 コンビニの募金箱に毎日1円玉を入れに行くだけでも、あなたは何かを「できている」んだよ、と毎日のように繰りかえし、そのたびに彼女は、
「そうだね。それが今できることだよね」
 と返事はするのだが、次の日には忘れているようである。
 彼女の感じている無力さは、そのまま私が感じている無力さでもあるのだが、自分ではそれを認めたくないのかもしれない。
 素直に認めないから、疲れてしまうのかもしれない。
 なにしろ、気がつくと動画サイトで JAM Project の曲を使ったMADばかり視てるもんなぁ(汗)
 無意識のうちに、何かから元気をもらおうとしているのかもしれない。
 もっとも、このあたり(↓)になると、泣けてくるから逆効果かもしれないが。
 
 D
 
 被災地の人たちに対して、気軽に「がんばろう」って言える状況じゃないことは判ってるけど、「初音ミク 応援Ver.」でも注文しようかなぁ。
 たとえ自己満足に過ぎなくても、自分に対して「がんばろう」って言い聞かせ、自分が元気になれて、その元気を他の人のために使うエネルギーに変換できるのなら、それも「あり」かな、と思うから……ね。