「鈍感力」と「想像力」は、同居不可能なのかもなぁ…

 
 某週刊誌に某作家のエッセイが載っていた。
 連載なので、この週刊誌を買えば、まず間違いなく読むことになるのだが、この回のエッセイは、ちといただけない内容だった。
 
 この作家氏、パートナーに勧められて東日本大震災の被災地を自分の目で見たい、と思うようになったそうだ。
 パートナーは、
「物書きだったら、ちゃんと見た方がいい。人生観が変わるはずだ
 と勧め、作家氏もその言葉に納得し、行こうとは思ったものの、一人で行ったのでは「見物」と思われかねないからイヤだった。
「人生観を変える」ために行くんだったら、その時点で「見物」だろうと思うんだが、作家氏にとっては、そうではないらしく、何とか行きたいと思って編集者諸氏に話を持ちかけたものの、なかなか色良い返事が来ない。
「費用は全部持つから誰か一緒に行ってほしい」
 と言っても、
「パートナー氏(仕事で頻繁に被災地に入っておられる由)に連れてってもらえばいいじゃないですか」
 などと応えられる始末。
 編集者なのに上から目線でそんな言い方をするなんて話にならない、と怒っているところへ、NPO法人に所属する知り合いと偶然この話になり、無事(?)被災地入りできることになったそうなのだが……
 
 あの惨状を自分の目でちゃんと見たら人生観が変わる、という確信は、何処から来ているのだろう?
 また、見に行こうとしないなんて「話にならない」と怒ることができる根拠は、何処にあるのだろう?
 かりにも作家の看板を上げるのであれば、他人様の心に、もう少し思いを馳せてほしい。
 想像力を働かせてほしい。
 世の中には、報道等で被災地の様子を知り、今も現場で復興作業に励んでいる人や、原発で働いている人たちの存在を知るだけで、
「自分は何もできなくて、もうしわけない」
 と思ってしまう人もいるのだ。
 もちろん、心が強い人──「鈍感な人」と言い換えてもいいが──には、想像もつかないことだろう。
 現場に立ってもいないのに、報道を見るだけで、何もできない自分を責め、背負わなくともよい罪悪感をずっしりと背負ってしまう人がいることなど。
 だが、そういう人は、わずかではあるけれど、確かに存在している。
 繊細と云われるアーティストに、そういう人がいたし、一般の人たちの中にも確実に存在している。
 作家氏が話を持ちかけた編集者諸氏のなかに、そういう感覚の持ち主がいなかった──と、なぜ言いきれる?
 もちろん、
「報道されるのを見てりゃ充分だろう」
 という、編集者の風上にも置けないような人も、中にはいたかもしれない。
 だが、それをすべて一括りにして当然、と思うような感覚の人が、被災地の状況を自分の目で見たからと云って、人生観が変わるほどの衝撃を受けるだろうか?
 私には、そうは思えない。
 
 ひとたび自然が怒れば、これほどの被害を受けてしまうんだ。
 人間は無力な存在なんだ。
 でも、この瓦礫のなかで頑張っている人がいる。
 自分も、寄付や講演などで、そういう人を応援しよう。
 できることを、一つ一つ、やっていくんだ。
 
 そう思って、次の本の印税を全額寄付して満足するのがオチのような気がする。
 だって、相手──この場合、被災した人たち──の気持ちを推しはかるだけの想像力があるとは思えないのだもの。
 
 この作家氏の人生観が変わるかどうか、私は少々意地悪な気持ちで、これからを見守っていこうと思っている。
 被災されたかたがたには申しわけないが、この作家氏の気持ちの動きに非常に興味があるのだ。
 作家氏が「人生観を変える」ほどのものを被災地で見つけることができるのか。
 もし、見つけられたとして、そのことに対する感謝を、どのような形で今後あらわしていくのか。
 人間、新たな境地に達することができれば、何らかの形で、それを表に出そうとするんじゃないかと思う。
 そして、その境地へと導いてくれた存在への感謝を、つねに心の何処かに持ちつづけるだろう。
 果たして、この作家氏の気持ちに、それほどの変化が起きるのかどうか──
 さて、どうなるでしょうかねぇ……
 
 参照リンク:知らないことがあってもへっちゃらさ「震災の情報を得ることによって罪悪感を感じてしまう人へ」