謙虚な気持ちを忘れたくはない──もちろん、自分も。

 
 思いも寄らぬ訃報やら何やらで後回しにはなっていたものの、相変わらず、朝一番で新聞を読んでは頭から湯気を噴いている私である。
 ネタは、例によって例のごとく天声人語だ。
 
 少々前の記事になるが、2011.6.10.付の同欄では、「縄文時代晩期のノコギリクワガタが、ほぼ完全な姿で見つかった」というニュースを、さも昨日今日の事柄のように取り上げていた。
 しかしながら、このニュースが報道されたのは5月25日のことだ。
天声人語」欄が取りあげるよりも、優に2週間は前のニュースである。
 それを、時事を題材とするコラム欄で「すこし前の話になるが」等の註釈もなく、皆が近々に目にしているがごとく筆致で話を運び、最終的には、
「この夏、虫たちは放射能も知らずに飛び回る」
 と、強引かつ唐突に原発問題へと結びつけ、文章が終わっている。
 題材の選びかたも唐突なら、文章の構成も強引で、ひょっとして、ノコギリクワガタが発見されたとき、いつでも使えるネタとして、あらかじめ書いておいたんじゃないかと思えるぐらいだ。
 
 また、2011.6.11.付の同欄では、自らの未熟を認めない尊大な感覚が読みとれる。

 年替わりの首相を「まるで生徒会長」と嘆いたところ、生徒会の顧問を長く務めたという元高校教師(67)から一筆いただいた。「生徒会長は大きな改革を左右する学校運営の要、軽い存在ではない」とのご指摘である

 
 この一文だけで、筆者が自分の書いた事柄を省みるつもりも、この元高校教師氏の意見に耳を傾けるつもりもないことが、はっきりと読みとれる。
 私の日本語感覚では、元高校教師(67)という紹介のしかたは、わざわざ手紙をくださった相手に敬意を持っているようには思えないし、「一筆」ってのは、さしあげるものであっていただくものではないんだけれど、そのへんの尊敬表現って、どうなんだろう。
 そして、これに続く段落では、

 任期末には、膨大な議事録が反省や提言を添えて引き継がれる。1年交代ゆえの全力、昨今の首相とは責任感が違う、というわけだ。

 
 と、元高校教師氏の手紙を引いてはいるものの、そうと知った後の筆者の反応とか対応とか云ったものが、いっさい見えてこない。
 いったい、生徒会長と首相とは違うということを納得はしたのか。
 納得したのなら、不適切な比較をしたことを詫びるとまではいかぬまでも、違うものと理解したと言及すべきではないのか。
 逆に、納得していないのなら、いただいたお手紙を引用するに留めて、反論なり質疑なりを出さずに済ます、というのは、文章を書く者としておかしいだろう。
 つまり、これまた、ただ単にネタになりそうな手紙が来たから、ちょっと触れておこう程度の考えで持ちだしているとしか思われず、元高校教師氏が教え子たちのことを考え、心をこめて書いたであろう書状を軽く扱っているとしか思えないんである。
 
 私も若いころは、そう思ってたさ。
 批判的なことを言われようが、どうしようが、相手の言うことなどに耳を貸す価値はない。
 まともに取り合う必要などない、と。
 だけど、このトシ(ようやく不惑を越えたあたり)になってくると、少しづつ解ってくるんだよ。
 自分の意見とは違う、自分とは相容れないタイプの文章であっても、どこかに読むべきところがあるはずだということが。
 まして、自分が公器(私の場合はブログ。「天声人語」の場合は言うまでもなく天下の朝日新聞)に意見を述べて、そこへ他者の書いたものを取りあげるという行為は、そこに何かを見いだしてこそ──のことじゃないだろうか。
 ただ単に話の枕として個人的な書状を公器にさらすことに、筆者は抵抗を感じなかったんだろうか。
 
 ……おそらく。
 筆者にとって、まともに取り合う必要もない、取るに足らない書状だ、という思いがあっての、この扱いなんだろうね。
 文章書きとしては非常に寂しい心がまえだと思うのだが、そう思う人がいても不思議はない。
 だけど、忘れないでほしいとは思う。
 自分が、何十万という読者に影響力を与える公器に文章を書いているのだ、ということを。
 あたしのブログみたいに、時々だれかが通りすがってってくれる程度の場所ならともかく、天下の朝日新聞だからねぇ。
 この元高校教師氏のお手紙も、もうちっと真摯に受けとめてほしいな──と、中高時代、生徒会室を巣にしていた自分は考えるのであったよ。