バランスの問題

 
 ずっと私淑している池波正太郎先生が亡くなられて20年になる。
 訃報を聞いたとき、私は廊下にうずくまってしまった。
 そのころ住んでいた、古ぼけたアパートの薄汚れた廊下の木目や壁の模様などまで、訃報に関連する情報として、あざやかに記憶に焼きついているのは何故なんだろう。
 アパートの隣の部屋にどんな人が住んでたかとか、そんなことすら憶えていないのに。
 いや、今となっては、アパートの名前すら憶えていないのに。
 そんなわけで、いまだに私の人生に大きな影響を与え続けている池波先生なのだが、世の中に対しての影響も大きいままのようで。
 最近になっても、なお単行本未収録の随筆や、今をときめく作家が選んだ傑作選などが出版されている。
 そのこと自体は非常に喜ばしいことなのだけれど、それについて、今日(7月19日付)の朝○新聞の「文化欄」に何とも気色の悪い文章が掲載されていた。
 文化部所属と思しき記者の署名入りなので、文責のはっきりしない「天○人語」に比べればマシだが、それにしても気色の悪い文章だった。
 内容としては、没後20年を記念して、いろいろな出版物や映像作品が企画されていること。
 その企画を立てている人のコメントを取ってまとめている、という体裁のもので、まぁ、よくあるタイプの評論文かな、という感じだ。
 だが、しかし。
 決定的に気に入らないことがあった。
 文章中に登場する故人については、すべて敬称が略されているのである。
 池波、藤沢(周平)、司馬(遼太郎)などと故人は呼び捨てにしているのに、企画を立てた人=いま生きてる人については「〜さん」という敬称をつけている。
 このバランス感覚のなさが、何とも気色の悪い印象を与えるのだ。
 生きてる人につけてる「〜さん」を、すべて「〜氏」にすれば、字数が節約できるから故人にも「氏」という敬称をつけることができるだろうし、いっそ「〜さん」を取ってしまって、文章の最後に「敬称略」と明記しておいても、誰も怒りはすまいよ。
 それを中途半端に差を付けるから、気色の悪いことになるのだ。
 常々、池波先生を尊敬していると述べている山本一力氏など、自分の名前には「さん」が付いてるのに、同じ文章のなかで池波先生が呼び捨てにされてるとあっては、なんとも居心地の悪い思いをしておられるに違いない。
 
 ま、なんだね。
 私が思うに、この評論文を書いた女性記者は、池波先生の作品など読んだことがないに違いない。
 少しでも、先生の文章に触れていたら、このバランス感覚のなさから来る気色の悪さに耐えられないだろうと思うからだ。
 没して20年を経過してなお、多くの同業者の尊敬を受けている人のことを軽んじていると思われてしまっても仕方ないと思うよ、記者さん……