何とも読みづらいんだけどねぇ…

 
 腹が立つなら、読まなきゃ良さそうなものなんだが、何故か毎朝、読んでしまって、ついつい腹を立てている。
 何って、例によって天声人語の話だ。
 いいかげん、私も学習しなきゃならないんだが、子どものころから、朝おきたら新聞を取ってきて、テレビ欄を見て「天声人語」を読む、という癖がついちゃってんだから、もうどうしようもない。
 今朝も、本日(2011.4.4.)付の「天声人語」欄を読んで一人、頭から湯気を噴いていた。
 もはや細かく引用するのも面倒くさいので、記事そのものは4月4日付のこちらを読んでいただくとして、筆者の上から目線と、なんだかズレてる日本語のセンスには、もはや言葉もない。
 
 最終段落手前では、「地震翌日の小欄で引いた寺田寅彦は」と、三週間以上前の「天声人語」欄の内容を読者が詳細に憶えていることを前提とした前フリを付けている。
 普通に「物理学者であり随筆家の寺田寅彦は」とかって書いたらイイやん。
 何故わざわざ自分が「以前から造詣が深い」と言わんばかりの前置きを付けるのか。
 しかも、三週間も前の「天声人語」にあたる手間も惜しいので、想像でしかないものの、続く文章を読むかぎり、そのときに引いた内容と、今日の寺田寅彦の引用とは、まったく関係が無さそうな書きぶりである。
 
 そして、最後の一文──
 
いのち萌える春よ、どうか慈母の優しさでみちのくを包めよ。
 
 ──寺田寅彦が、日本の自然には「慈母の優しさ」がある、という話が前段にあるので、それを受けての一文なのだろうが、どうも日本語としてちぐはぐな印象を受ける。
 全体の文調からして、いわゆる現代文で、文章を締めくくりたかったのだろうが、それだと最後の「包めよ」という命令形が、いかにも不似合いだ。
「どうか」と文頭に「お願い」の接頭辞を置きながら、「包めよ」と命令形で終わるのは、おかしくないか?
 
 古文の授業で「ぞ・なむ・や・か・こそ」という5つの係助詞を教えられ、いまだ呪文のように憶えている人も多かろう。
 この「天声人語」の筆者は、「どうか」の「か」を係助詞に分類して、文末を「係り結び」にしたつもりでいるとしか思えないのだが……うがちすぎだろうか?
 でも、そうとでも考えなければ、最後に「包めよ」という命令形(実のところ「係り結び」にすらなってない)を持ってくる意味が解らないのだ。
 
 全体が現代文とは云え、最後を強調の意味を持つ古文調の「係り結び」で終わりたかったのなら、
 
 いのち萌える春よ、慈母の優しさでこそみちのくを包めや
 
 とでも、しといたら良かったのだ。
 そしたら、
「筆者は、大きな被害を受けた陸奥全域にも、暖かく優しい春が来ることを望んでいるのだな」
 と読みとって、おしまいにできたのに。
 
 仮にも、新聞の「顔」の一つとなってるコラム欄なのだから、もうすこし気を遣って書いてほしい、と思うのは贅沢だろうか。
 昔は、それなりに名文が載っていたりもして(玉石混交ではあったが)、朝のひとときを味わいぶかいものにしてくれた同欄だが、本当にもうダメなのかもしれない。
 いっそ、若手の作家にでも毎日交代で書かせてみたら、どうだろう?
 本人の勉強にもなるだろうし、こちらも目先が変わって面白いし。
 個人的には、若手どころか大ベテランだが、椎名誠氏とか北方謙三氏、清水義範先生、中堅どころの堀井憲一郎氏などがランダムに書いてくれると嬉しいなぁ。
 原稿が入ってきた順に掲載します、とか云って。
 シーナさんとホリイさんのデッドヒートになりそうだけど(笑)
 活字を大きくしましたとか、段の幅を拡げましたとかって体裁の話ばかりではなく、内容についても検討してほしいなぁ、と切に願う次第でありますよ。