なんとなくカラクリが見えた気がする

 
 前回、新聞の読者投稿欄に載っていた意見に対して、少しばかり思うところを書いた。
 書いたときには、まさしくそう思って書いたのだが、今日になってみて、あの投稿者氏は本当にああいう内容で文章を書いたのだろうかということが、ひどく気になってきた。
 もし、投稿欄を担当している記者が、故意に文意を違えて受けとれるような校正──と云うより書き換え──をしていたら、私は、投稿者氏に対して理由のない言いがかりをつけたことになってしまうからだ。
 
 何故そう思ったかと云うと、今日、実家へ顔を出したところ、例によって、私の母が頭から湯気を噴いて怒っていたからである。
 それをなだめて、とにかく話を聞いてみたところ、とんでもないことが判明した。
 
 未曾有の大震災と云われた東日本大震災から2ヶ月ちかくが経とうとしている。
 母としても被災したかたがたのお役に立ちたいのだが、如何せん、70の坂を越えた身体を使っての手伝いでは、かえって病院に担ぎこまれて迷惑をかけることになってしまわないとも限らない。
 なので、自分の家で「にこにこ基金」というのを始めた。
 これは、ロータリー・クラブが行なっていた基金で、結婚記念日や夫婦それぞれの誕生日など、嬉しいこと=にこにこすることがあったとき、クラブの「基金」にお金を託し、クラブ側が管理をして、育英会への定期的な援助や天災があった折りの寄付金として出していたらしい、という話を、その昔クラブに所属していた父(母から見れば「夫」)から聞いたので、その真似っこをしよう、と思いついて始めたものだ。
 孫(私の子どもたち)の卒業式、入学式、すばらしいコンサートを聴いて感動したとき(音楽鑑賞が趣味なので)、散歩に出て綺麗な花に出会ったときなど、ほんのささやかな「にこにこ」でも、見つけたときに家の貯金箱にお金を入れていく。
 その「にこにこ」が被災したかたがたの「うれしい」になっていけたら良いな、と思っている。
 
 ──母は概略、上記のようなことを投稿欄の字数に合う量におさめて投稿したそうな。
 したらば、新聞社にその原稿を送った翌々日ぐらいに「投稿欄の担当者です」と名乗る人物から電話があり、
「送ってもらった記事、少し短くして使いますから
 と一方的に告げたらしい。
 当然のことながら、この時点で、母の頭は第一次噴火状態である。
 母は昔人間なので「〜させていただきます」という言葉を要求する気こそなかったが、
「使いますから」
 と一方的に宣言されるほど軽視される理由もない、と感じたらしい。
 そりゃ、そうだよね。
 新聞からしたら、何だかんだ云っても、読者は「お客様」だ。
 その「お客様」の意見を紙面に載せるんだから、最低でも、
「採用させてもらいます」
 ぐらいは言っても良いんじゃなかろうか。
 で、ぐらぐら煮立った状態で掲載日を迎え、一読して本格的に噴火したうえ、担当者が「校正という名の改悪」をした自分の原稿に推敲を加えて文句を言ってやろう、という原稿を書いているうちに、どんどん噴火の度合いが激しくなっていき、ちょうど、その頂点あたりで私が顔を出してしまったらしい。
 なので、私にしてみれば、とんだ飛ばっちりではあったのだが、新聞社が如何に読者の投稿に手を入れているかという例を見せてもらうことができたのは、収穫だったと思う。
 
 母は、自分の行為が特筆するような「善行」であるとは思っていない。
 ただ、細く長く、被災地の人に喜んでもらえるような行為をしていきたいなぁ、という思いを訴えたかったのだ。
 なので、原稿では「支援」や「援助」、「義援金」と云った言葉は一切、使われていなかった。
 母は「使いたくなかったから使わなかった」と言う。
 実際、母の文章の主旨は、
「自分の『にこにこ』が、ずっと誰かの『うれしい』になっていってほしい」
 ということにあり、そのことを「支援」などの言葉で表現してはいなかった。
 なのに、紙面に載った文章には「援助」とか「義援金」とかの言葉が踊り、こういう行為を「長く続けていきたい」と締めくくられていた。
 しかも、職業欄が「無職」になってんだから、トシ喰った金持ちのオバハンが被災地にカネ送って、上から目線でイイ気になってる、と読みとれなくもない。
 つか、母自身は、あまりに変わってしまった自分の文章を、そのように読んでしまって頭から湯気を噴いていたわけだ。
 
 母の気持ちは、よく理解できる。
 私自身、その昔、たった一文字の漢字を使うか使わないかで、編集者と大喧嘩をやらかした生意気な物書きだったのだから。
 逆に言うと、自分の文章にこだわる気持ち、その主旨を曲解して掲載されてしまう口惜しさというのが、我が身に染みて感じられるのだ。
 だが、それと同時に、いつの間にか、編集者の側からも物事を見るクセもついてきた。
 今回の読者投稿欄の場合、担当者は、75歳という先行き短い(お年寄りには失礼だが、後期高齢者に区分されている以上、先行きがむちゃくちゃ長いとは云えないと思う)ばあさんが、被災地への支援をずっと続けようとしているという話を仕立てあげたかったのだろう。
 それでなくても、日が経つに連れて被害の実状は忘れ去られてゆき、いまだ元の生活に戻れる目処すら立っていないかたがたが多くあるなかで、問題の焦点は、フクシマの始末とハマオカの停止へと移りつつある。
 だから、被災地への支援はまだまだ必要だよ、お金はいくらでも必要なんだよ、自粛なんかしないで回していこうよ(これは、母が「コンサートを楽しんだりしてお金を遣う」と書いていたことからの連想かと思われる)──ということを、母の原稿を使って訴えようとしたのだろう。
 
 ……とまぁ、担当者の気持ちを推しはかってみたところで、彼(彼女?)に母の原稿を改悪する権利はないわけで。
 今回の原稿は名古屋本社に送ったから、東京本社の「読者のご意見をお聞かせください」ってところに文句を言ってやる、と息巻く母に向かい、
「そんなつもりは全くないのに、自分の考えを上から目線に書きなおされたのが気に入らないって書くのが、通じが良いと思うよ」
 とだけ言って帰ってきた。
 母自身は、自分が使ってない言葉を使われたり、逆に、自分が考えぬいて使った言葉を削除されたりしたのも気に入らなくて、微に入り細に穿った抗議文を書いていたんだけどね。
 あまりに細かく文句を言ったら、それこそ、
「そういう御自分の意見は、ブログやツイッターで発表されてはどうですか?」
 なんて、真面目に取り合ってもらえない可能性がある。
 抗議はシンプルに、なおかつ、敵の痛いところを突いてやるのが吉なのだ。
 新聞記者様だ何だと大上段に振りかぶることができる時代が終わったことは、新聞社の中にいる人たちが、いちばんよく理解していることだろう。
 母の気持ちを解ってくれる人が、東京本社に一人でもいることを心から祈る──。