相変わらず、勝手に怒ってるんだな、これが。
勝手にそう思いこんでただけなんだから、怒ることができる筋合いの話ではないのだが……
今日(2011.6.6.)付の「天声人語」によると、この欄の筆者は、ずっとワープロで原稿を書いていたらしい。
なるほど、それで納得がいった。
何に対してって、時々みかける妙な日本語の遣いかたについて、である。
対句表現の片方だけを書いて対を成しているつもりになっていたり、故事来歴を引用する際に出典を明記しなかったり。
ちょっと深く調べれば別の解釈ができることを、私でも引っかけられるような検索結果の羅列で終わらせていたこともある。
何故そんな中途半端なことができるんだろう……と常々不思議に思ってたんだけども、ワープロを使って原稿を書いていたとなると、なんとなく納得できるのだ。
今どきワープロだけの機械なんて使ってないだろうから、当然PCに搭載したワープロソフトを使っている、ということだろう。
となると、そのPCがインターネットに接続されている可能性は高い。
解らない語句、判断の根拠が見つからない状況などが出てきたとき、紙の資料を繙く手間をかけずにネットで検索して済ませているのでは……と考えられる。
その結果、中途半端な日本語による文章ができあがってしまう、というわけである。
そうなってくると、字組なんかも最初から作って入力しているのでは、と思えてくる。
「天声人語」欄の14字×6行+17字×29行のフォーマットを作って、それに当てはまるように書いているのではないだろうか。
(ちなみに、最初の6行が3字分少ないのは「天声人語」の題字が入るためだ)
最初から字枠組みを決めておいて書けるという機能は、ワープロソフトの長所には違いない。
違いないのだが、一歩まちがうと、文章が味気なくなる原因の一つになってしまうのではないか……とも思う。
400字詰めの原稿用紙に何枚分、と文章を書き、実際に「天声人語」の字組に直したとき、どこかが半端にブラ下がる、逆に足りなくなる、ということが判る。
そして、それを解決するために、ことばを選び、推敲を重ねてこそ初めて、昔から名文と云われた「天声人語」たりえるような気がするのだ。
いや、もちろん、私の勝手な思いこみだと解ってはいるんだけどね。
でも、「天声人語」って云うと、天下の朝日新聞の社名入り原稿用紙に万年筆で書いているんだろうな──と、漠然とイメージしていたのだ。
それが、今日付の「天声人語」によれば、実はパソコンに頼っていたというだけでも興醒めなのに、たまには手で書いてみようと思い立った筆者殿、朝日新聞社が売りに出してる「『天声人語』専用の書き写しノート」(実際の紙面と同じマス目に区切ってあるノートらしい)を使い、鉛筆をとがらせて書いてみたそうだ。
「鉛筆をとがらせて」という表現は、今日の同欄前段に引いてきた尾崎放哉の自由律俳句──<心をまとめる鉛筆とがらす>を踏んだつもりなんだろうけど、俳句と文章とでは、おのずから筆記具に向かう姿勢も変わってくるはずだろう。
文章を書く鉛筆はとがらせて使うもんじゃねぇよ。
けずって使うもんだっつーの。
なんだかガックリ来てしまったのであった……