603字では絶対、鍛えられねぇから。

 
 昨日(2011.7.26.)付の朝日新聞天声人語 603字で鍛える力」という記事が載っていた。
 
天声人語」筆写専用ノートを売り出したところ、20万冊超の大ヒット!
 小・中学校の「朝の読書タイム」を「書き写しタイム」に変更することで、子どもたちの読解力と集中力とが鍛えられる!
 高校・学習塾では、ニュースに関心を抱くきっかけとして、あるいは、論理的に考えて書く力を養うために推奨!
 企業では、新入社員にノートを配布し、多面的に物事を捉える力を育て、ビジネスに役立てるために!
 
 ……といった感じの記事で、要するに自画自讃記事なわけだがね。
 はっきり言うが、誕生したころ(100年以上前)の大阪朝日の主筆格で、天声人語の名付け親と言われる西村天囚翁あたりの文章ならばともかく、最近の「天声人語」を筆写したところで、読解力だの論理的な思考力だのは養われないと思うし、語彙が増えることもないだろうと思う。
 
 ひとつには、現在の「天声人語」を書いているのが戦後のベテラン記者だという点にある。
 新聞記者という職業を貶める気は毛頭無いが、新聞記事の文章とコラムの文章とは、その性質が違う。
 だが、最近の「天声人語子」(同欄の担当記者をこう呼ぶげな)が、そのことを心得ているとは思えない。
 私が、このブログで取りあげただけでも、字数を詰めるために「異を唱える」という成語を「異を言う」に書き換えたり、中国の古典から取ったという成語についてハッキリした出典を挙げなかったり、という具合で、無責任に書きとばしているという印象が拭えないのだ。
 これは、戦後(正確には、昭和末期ごろから)の新聞記事を書く際の規定に無意識のうちに縛られているから、こうなってしまうんじゃないかと思う。
 新聞記事を書く際の、使ってよいことば、いけないことば、また、ソースをはっきりさせるべきところ、させないところの差、などは、コラムを書く際のそれとは全く違うはずなんだが、どうも現在の「天声人語子」は、それを考慮に入れておられないと見受けられる。
 
 もうひとつ。
 実際に「書き写し」をしている中学生の感想として、
「写すのが速くなると読書も速くなった。数行ずつ(原文ママ)覚えて写す訓練をしているからだと思う」
 というのがあった。
 私は元来、「速読」というものに疑問を抱いている。
 実用書や啓蒙書の類ならば、速読にも意味はあろうが、小説や随筆を読むのに何故、速度が必要なのであろうか。
 私が中学生のときは、気に入った小説は、ほんの一語一文にも気を魅かれ、何度も繰りかえして読んだものだった。
 だが、この「読むのが速くなった」中学生は、その喜びを、これから知ることができるだろうか。
 ひょっとしたら、読書の森の入口に気づかず、そのまま歩みさってしまうのではないだろうか。
 杞憂と云われれば、それまでだが……
 
 まぁ、そもそも「天声人語」ってことばの意味からして、いいかげんなものらしい。
 今回の記事に、

天声人語」は「天に声あり人をして語らしむ」という意味。

 
 とだけある。
 ちなみに、私が私淑する高島俊男先生の著書『お言葉ですが…』に収録されている天声人語のネーミング的研究」という項によれば、1995年10月には出版されていた(高島先生が、この時期に取り寄せておられることより推測)『朝日新聞社史』に、

「天に声あり人をして語らしむ」という中国古典にもとづく

 
とあるそうだ。
 高島先生は、この一文に疑義を表しておられる。

 原文は「天有声使人語」? うーむ、愚生不学無術にして見たおぼえがない。ふつうに言う「中国古典」にはない語であり、ない発想である。天は物言わず日蝕地震をおこして意志をあらわす、ということになってるんだ。
 思うに、『朝日新聞社史』の「中国古典にもとづく」というのがアヤシイね。ほんとに出典があるのなら、「中国古典に」などとあいまいなことを言わず、ズバリ書名を示していただきたいものだ。

 
 しごく当然の感想であろう。
 邪推するのならば、高島先生のこの文章が発表されたから、朝日新聞社側で一所懸命に調べたけれど、結局のところ出典が見つからないから、「『天は〜』という意味」なんて文章でお茶を濁したんじゃないか、という気さえしてくる。
 出典がハッキリしないなら、相も変わらぬ、漢文書き下し的文章で意味を説明しなくても、いさぎよくシャッポを脱いで(これは死語だな)、高島先生の書かれた、

 元来「天声人語」というのは何もそう深い意味があるわけじゃない。単に「あちらの声やこちらの発言」「閑語雑談」というほどの意味だったのじゃないか、というのが、現在のところわたしの考えである。

 
 という文章を素直にお借りしておいたら良かったんじゃないかね。
 そうした他人の意見や、同欄への投書に対して真摯な姿勢を見せないのも、私が最近の「天声人語」を気に喰わない理由のひとつである。
 もし、子どもらの学校の「読書タイム」が「書き写しタイム」になったら、即座に新しく新聞を契約して「産○抄」とか「余○」とかを書きうつさせてやる、ぐらいの気概はあるつもりだ。
 もっとも、こうしてブログのネタを提供してくれるうえ(新しくカテゴリまで作っちゃったよ)、自分の日本語能力を確かめさせてくれるという意味では、感謝してるんだけどね。
 それはまぁ、新聞代で払ってるってことで、ひとつ(笑)
 
 お言葉ですが… (文春文庫)
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