声に出して読んでみろ

 
 私の場合、文章を書くときは、その文章を口の中で読んでいることが多い。
 口が動いたりしているわけではないのだが、やはり「読みやすさ」を意識しているのだと思う。
 およそ文章を書く以上、その文章が他人の目に触れ、他人が読む機会がある以上、読みやすく書くのは当たり前だと思うので、自然とそうなるのだ。
 お役所の書類などのように、他人に読まれるのは当たり前だけれど、読みやすさに関しては勘案されることがない文章というものも存在するが、そういう手合いは、ちょいと今回の論から外しておく。
 
 さて。
 世の中、他人が読むことが大前提になっているのにも関わらず、平気の平佐で読みづらい文章を書く輩というのがいるから始末に悪い。
 しかも、その輩が大新聞社のコラムを担当してたりして、世の中ではそのコラムを書き移すのを勉強の一端にしてる学校やら人やらが多くあるというんだから、始末に悪いのを通りこして害悪ですらあると思う。
 そう──例によって、本日(2012.1.31.)付けの朝日新聞天声人語欄の話である。
 とにかく冒頭部分を引かせてもらおう。

このあいだ年をまたいだと思ったら、早くも最初の月が尽きる。視界は不良ながら、あたたかい火と灯と人に励まされて春を待つ1月の言葉から

 
 ……どこの早口言葉だ?
「月」と「尽き」、「火と」と「灯と」と「人」あたりは韻を踏んで洒落のめしてるつもりだろうが、とんだ道化である。
 読みづらいばっかりだ。
 声に出して読むのはもちろん、頭のなかで読もうとしても引っかかるぐらいには読みづらい。
 
 そして、センスがない。
 いや、あたしだってセンスがあるわけじゃないよ。
 だけどね、「春を待つ」って一節があるということは、先のことに期待しているってイメージを持って「1月の言葉」を選んだってことだと思うんだ。
 なのに、いきなり「月が尽きる」なんて後ろ向きな表現をしようと思う、その筆の滑りっぷりには呆れるね。
 
 最近あまりの滑りかたに、敢えて「天声人語」からは目を逸らしてたんだが、こういう文章を書いて、天声人語子でござい、という顔をされては、歴代の天声人語子の立場が無かろうて。
 少なくとも私の学生時代には、「天声人語」と云えば、受験に必要な現代文の手本であり、小論文の見本であったのだから。
 自分の書いた文章を声に出して読みかえしてから新聞に掲載するようにしたら、無駄な滑りもなくなるんじゃないかと思うんだけど、そんなこと、考えたこともないんだろうなぁ、きっと……