スキルのひとつなんだがなぁ…
各地の小学校にある、お馴染み二宮金次郎の銅像が次々に撤去されているというニュースを読んだ。
二宮金次郎の勤勉さや勉学を重んじる姿勢は現代にも通ずるとして見なおされている反面、歩きながら本を読むのは危ないという保護者からの要請で、歩き読みを推奨するような銅像は撤去される、という動きもあるようだ。
この「歩きながら本を読む」というスキル、私が他人に誇れる数少ないスキルのひとつである。
小学校のころから──べつに二宮金次郎を見習ったわけではないが──、図書館で借りたハードカバー本を読みながら帰宅していた。
一度、母の知り合いが本を読みながら歩いている私を見かけ、危ないからと声をかけようとした瞬間、私が歩道に乗りあげて駐車していた車をスイッと避け、飛び出し車輌がありそうな小路の前ではピタッと足を止めるのを目の当たりにして、
「その間、まったく本から目を離さないんだから、たいしたもんだわ」
と呆れてるんだか褒めてるんだか判らない口調で母に告げ、母からは大きな溜息を浴びせかけられたことを記憶している。
何かをしながら本を読む、というスキルは、それからも独自の進化を遂げ、今の私は左手ひとつで本を読むことができる。
片手でハードカバーは流石に無理だが、そこそこの厚さのノベルスやソフトカバー本ぐらいまでなら、浴槽に落っことすこともなく読みつづけられる。
人間の人生に限りがある以上、読める本の冊数にも限りがある。
であるからして、移動中だろうが入浴中だろうが、読めるときに本を読みたいという欲求は当然のことであり、そのためのスキルを磨くのも、また当たり前のことだと私は思っていた。
だが、そんな私も、自転車に乗りながら、あるいは、運転しながら本を読もうとか、携帯をいじろうとかは思わない。
よくやってる人を見かけるが、
「あんな怖ろしいこと、よくやるなぁ……」
と思うぐらいだ。
なのに何故、自分が歩きながら本を読むのは平気だし、スキルのひとつだと威張ってさえいるのかと云えば、おそらく歩行者=交通弱者だからなのだろうと思う。
なにか事故が起きれば、ケガをするのは歩行者のほうだ。
だからこそ、事故が起きないように自然と防衛しながら動くようになる。
まして、我が家は、車にハネられでもしたらハネられるほどボケてた子どもが悪い、という教育方針の家だったから、自分の身を守ることにかけては注意を払っていた。
交通量も昔とは段違いだし、歩きながら本を読むのが危ない、という親御さんたちの意見も理解はできるのだが、肝の冷える思いをしながらスキルを身に着けるのも「成長」のひとつなんじゃないかなぁ……と、行儀わるく本を片手にメシを食う私は思うのであった。
言葉は悪いが…
「腐っても鯛」という諺を目の当たりにした思いだ。
我が家の近所に一軒の本屋がある。
歴史が古く、それなりの規模を持った本屋だ。
昨今よくあるレンタルショップ併設の郊外型の書店ではなく、書籍に雑誌、文房具だけを扱う店舗だった。
品ぞろえも凝っていて、雑誌の類なども一般書店では及びもつかないような数を扱っていた。
一時期、私がパートに入っていたころは、棚の構成に関して一家言も二家言もあるような連中(私もふくめ)が、個性的で面白い棚を作って売り上げを伸ばすことに、鎬を削っていたものだ。
だが、昨今の不況下、そうした本屋は流行らなくなったのだろう。
いつの間にか、書棚の数は減り、雑誌の種類も少なくなった。
個性的なパートさんや社員さんたちも次々に辞めていき、時々「読み聞かせ」や「講演会」などを開催するほかは、ごく普通の本屋になっていった──ように、私には見えていた。
事の起こりは、娘である。
何をどう思ったのか知らんが、
「ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読みたい」
と言いだしたのだ。
いわゆる「世界の名作」に数えられるような本だから、どこの文庫にも収録されているだろう。
だが、どうせ古典とも云えるようなドイツ文学を読ませるなら、私は実吉捷郎氏の訳で読ませたかった。
古い考えかもしれないが、古典に相応しい日本語で訳されたものを読ませたかったのだ。
Amazon.で探してみたところ、実吉訳の『車輪の下』は岩波文庫に収録されており、配送まで1〜3週間かかると書いてある。
私 「ちょいと、おにいさん。あんたの店(うちの相方は大手チェーンの本屋勤務である)に岩波文庫なんて置いてないよね?」
相方「うちみたいな流行りモノ中心の店にはないよ。
岩波は買い切りだから」
私 「やっぱり、そうだよねぇ……」
岩波書店というのは、御大尽商売をしても許される数少ない出版社のひとつだ。
書店に卸した自社出版物の引き取りをしないんである。
それがつまり、書店買い切り、ということで、一切の返本は許されない。
本屋にしてみれば、いつ売れるか判らない本で棚を塞いでおくことはできないし、かと云って、仕入れたら最後、返本できないというのでは、なかなか扱いづらい。
学術書系統に振っている本屋ならばともかく、普通の本屋では敬遠される品物だろう。
まして、Amazon.においておやである。
だが、その昔、例の近所の本屋には岩波文庫の棚が厳然として存在していた。
当時の社長が、
「売れなくても置いておくべきだ」
と主張しており、これがまたたまに売れたりするから面白い。
文庫の品出しをするたびに、その妙に唸っていた私なので、久々にその本屋に行ってみることにした。
──あったよ。
店内は随分と様変わりしてたけど、棚の幅は半分になってたけど、ちゃんと岩波文庫のコーナーがあった。
お目当ての『車輪の下』もあったので、早速ゲット。
何だかんだ云いつつも、どこかにこだわりが残ってるもんなんだなぁ、と思い、ちょっと感心した私なのだった。
気持ちは解る
年の瀬も押しつまり、いろんな人が亡くなって、いよいよ世界情勢だの日本経済だのが混沌としてきた感がある。
私のような一主婦は、日々の生活に追われるなか、師走の雰囲気を悟るのが精いっぱいだが、それだけに、ほんの小さなことでも喜んだり悲しんだりできるんだから、ある意味、得なのかもしれない。
今日、仕事に行く前にコンビニに寄った。
3時のおやつのために、何かお菓子を買っていこうと思ったのだ。
おいしそうな栗まんじゅうがあったので、それを選んでレジへ。
レジ台のうえに、ころん……と置いたら、レジの女の子が、
「うわ、まただ!」
と、小さく舌打ちをした。
一瞬「え?」と思ったのだが、どうやら、この栗まんじゅう、包み紙が、まんじゅうの形に沿って丸くなっていて、バーコードが読みとりづらいらしい。
もちろん、それは私のせいじゃないし、それを理由にレジの女の子に舌打ちされるなど、いわれなく失礼な行為をされたのに等しいから、文句を言っても良かったのだが、つい、
「ごめんなさいね」
と言ってしまった。
書店で働いてたとき、ボールペンの細い軸に刻まれたバーコードだの、型抜きの消しゴムに貼られて複雑にネジ曲がってるバーコードだのと格闘してきた身としては、レジの女の子の気持ちが痛いほど解ったからだ。
女の子のほうも、すぐに気がついたのだろう。
「あ、違うんです! すみません!」
と頭を下げて、一所懸命に包み紙を伸ばしてバーコードを読んでくれた。
そして、
「寒くなると、おまんじゅうにお茶って良いですね」
と言った。
彼女にしてみれば、自分が不用意に口にしてしまった一言を、なんとかしてフォローしたかったんだと思う。
そして、私には、その気遣いが嬉しかった。
「そうね。熱いお茶におまんじゅうって美味しいですよね」
と笑うと、彼女もホッとしたように笑ってくれた。
たったそれだけのやり取りだったが、なんだか妙に温かい気持ちになった。
それだけ世の中が厳しくなってるってことなのかもしれない。
それでも私は、こんなやり取りができるだけ、まだまだ世の中、捨てたもんじゃないと思うし、少しは余裕があるんじゃないかな、と思ったりもする。
いろいろ大変なことも多いけど、ま、おたがい頑張りまっしょい。
ちょっと不思議
週に2〜3日、近所の公民館で受付業務をしている。
「受付」と云っても、小さな公民館のこと、電話番のほか、利用予約を受けたり、館内外の掃除をしたり、利用者(近所のお年寄りが多い)のお話し相手をしたり……という、いわば「なんでも係」である。
先日も受付に座って電話番をしていたが、この日は、定期のダンス教室が開かれてたほか、什器の交換に業者さんが入っていたので、何だかんだで忙しかった。
そこへ電話が鳴ったのだ。
相手は某TV局の下請け製作会社だと名乗り、地方性を取りあげることで有名な番組の名前を告げて、
「今回この地方がテーマになったんで、聞き取り調査をしてるんですが、今お時間ありますか?」
と尋いてきた。
もちろん、こちらは業者さんの相手もしなきゃいけなかったし、手が空いてなかったので、ことわったのだが──
ちゃんと、相手の時間の有無を確認してきたのは、まぁ良しとしよう。
でもさ、ごく普通の企業や事務所の電話番が、就業時間中に、そんな電話を受けて回答できると本当に思ってるんだろうか?
有名な番組だから答えないはずがない、と思ってるとしたら、とんだ思いあがりだし、自分は仕事してるんだから相手は協力してくれるに違いない、と思ってるとしたら、とんでもなくオメデタイ頭の持ち主、ということになる。
実際どうなんだろうね、こういうのって。
最近は、個人宅でナンバーディスプレイを導入するところも増えてきて、知らない電話番号だと出てもらえないから、どんな電話でも、とりあえずは出ざるを得ない企業や事務所に掛けてきているんだろうか。
あらかじめ、ネットでサポーター(?)みたいなのを募集しておき、状況に応じて、その人たちに回答してもらうとか、もっとあやふやじゃないやりかたがあると思うんだけど……
な〜んかスッキリしない電話だったのであった。
あんたに言われたくはない
こればっかりは「天声人語」で取りあげてほしくなかったんだが、ネタが切れたらしくて10日ちかく前のニュースを引っぱりだしてきていた。
何って、マツダがロータリーエンジン搭載車の生産販売を終了する、というニュースである。
私の愛車は、ロータリーエンジン搭載の「RX−8」だ。
それも、いまや廃盤色となったライトニングイエローの「RX−8」である。
当然のことながら、乗り手の私は、ロータリーエンジン搭載の車を転がしてることに誇りを持ってるし、車が許してくれるかぎり、ずっと寄り添っていく決意をかためている。
なのに、天声人語子の言いぐさときたら、こうだ。(引用文は全て、2011.10.17.付「天声人語」より)
誰が絶滅危惧種──つか、絶滅種やねんっ!
ロータリーエンジンを愛する乗り手がいるかぎり、ロータリーエンジンも、その生命を積んだ車も、けっして死に絶えることはないのだ。
こちとら、カタログから姿を消したからって、とっとと次の車に乗りかえるようなハンパな気持ちでロータリー車を転がしちゃいないんである。
そんなことも判らんくせに、偉そうにネタにするんじゃないっ!
「弱みは燃費」だと?
悪かったな、どうせリッター4kmしか走らねぇよ。
だけど、その4kmには浪漫がある。
天声人語子には絶対に理解できないだろうけれど、そこには間違いなく、日本のモノ造りの精神に通ずる浪漫があるのだ。
孤高の技術と、それを走らせ続けた人たちに、チェッカーフラッグを捧げたい。
などとヌカしてるけど、自分が何を書いてるのか理解しているんだろうか。
ロータリーエンジン搭載車は、まだまだ走りつづける。
RX−8はおろか、その前のRX−7(FC、FD)が、いまだに多くの人たちに愛されて街を走りつづけているのだ。
チェッカー振ったところで止まるヤツなんざ、居やしねぇよ。
一つのエンジンと、その生命の灯を輝かせながら走る車への愛と浪漫──天声人語子には、けっして理解できないだろう。
理解できない以上、勝手に人の浪漫に幕引きをしてほしくないもんだ、としみじみ思ったのであったよ。