勝敗の問題じゃねぇ。

 
 本日(2011.9.17.)付の朝日新聞天声人語」欄で、文化庁国語に関する世論調査について触れていた。
 天声人語子によれば、

 ら抜きの是非、どうやら勝負が見えてきた

 
 という結果らしい。
 実際、ら抜きで「来れますか?」と使う人は、5年前の35%から43%に増え、「来られますか」と併用する人を足すと過半の51%になるんだそうだ。
 だから、ら抜き言葉が勝っている、と天声人語子は言いたいようだが、ことばの変遷って、そんな単純な二元論ではないと思う。
 
 私の敬愛する高島俊男先生が「ら抜きことば」について言及したとき、こんなことを書いておられた。

 今「ら抜き」に不快を感じる者が、「いやだ」と言うのを遠慮する必要はすこしもない。それどころか、ハッキリと、決然と、そう言うべきである。これは無益に似ているが、そうではない。世のなかは、自分の感覚の正当を信ずる者がそれを強く主張することによって持ってきたのだ。すくなくともそれでバランスがとれてきたのだ、と思えばよいのである。
               「見れます出れます食べれます」──『お言葉ですが…』所収

 
 高島先生は「ら抜きことば」を嫌っておられるが、その存在を否定しようとはしない。
 ただ、御自身は「ら抜きことばが不快だ」と主張しておられるだけである。
 そこに、どちらが優で、どちらが劣で、という勝敗を決するような思想はない。
 ことばの趨勢において、以前の用法が負けて現在の用法が勝ったから、現在の用法が浸透したなどという理屈はあり得ないのだ。
 もちろん、この平成の世の中、書きことばよりも話しことばのほうが変化が速く、文字どおり、人口に膾炙しやすいという面はあると思う。
 だが、それと、書きことばと話しことばの優劣とは関係ないし、まして、天声人語子が最終段で述べているように、

 簡便に流れるのが「生きた言語」ならば、主役は話し言葉で、書く方はそっと後を追う。

 
 などと、書きことばを卑下する必要もない。
 まして、この文章に続く最後の一文──

 この現実、まともに見れないほど怖っ。

 
 と、まとめにもならない一文を、わざわざ話しことばで書く意味が何処にある?
 いったい何が言いたい?

 昨今は「早っ」「でかっ」と、何でも語幹で驚くらしい

 
 という一文を受けてのことらしいが、いかにも「勝ち組に乗ってみました」的な使いかたが、背骨が這いでるほどに嫌らしく感じられる。
 しかし……語幹で驚くって今さら改めて「増えてきた」というほどのことだろうか。
 タンスのカドで足の小指ぶつけて、ただしく「痛いっ!」と言う人って、そんなにいないような……?
 大概は「痛(いた)っ!」とか「痛(つぅ)っ!」とかで終わっちゃうんじゃないか?
 それを考えると、話しことばと書きことばの違いは昔からあったことで、今回の調査は、メールやツイッターなどによる話しことばの書きことば化の実態を浮き彫りにしたものに過ぎないのではないか、という気がする。
 
 ま、この分だと、天下の「天声人語」が、フレンドリー(なフリをした)話しことばになりそうで怖いけどね。
 それもまた、時代の趨勢なんだろうよ。
 私はあくまで、そういう表記を「不快だ」と主張するだろうけどな(笑)
  

さびしいです

 
 俳優・竹脇無我が亡くなられました。
 67歳ということですから、まだこれから……の部分もあったでしょう。
 うつを患われ、いろいろと苦労なさったという話は耳にしていましたが、それも次第に良いほうへ向かっており、自分から、うつの話をされるぐらいには回復されていたようなので、また役者としての姿を拝見できるものと思っていました。
 
 若いころ、二枚目俳優として鳴らしたかたが、老いてからなお、渋い二枚目としてやっていけるかと云うと、なかなか難しいと思うんです。
 若輩者が偉そうなことを言いますが、竹脇氏ならば、一皮むけた渋さを見せてくださるのでは……と、ひそかに思っていました。
 それを思うと、60代でのご逝去は、いかにも残念に感じます。
 
 御冥福をお祈りいたします。
 

考えたら失礼な話なわけで

 
 夏の高校野球全国大会を視ていた。
 和歌山県代表・智辯学園和歌山高校日大三高に敗れ、準々決勝への進出ならずに夏を終えたところだ。
 
 この智辯学園和歌山高校」の表記だが、新聞もテレビ放映の字幕も、すべて智弁となっている。
 最近、やたらと引き合いに出して恐縮だが、以前に読んだ高島俊男先生の本所収の「全部ベンの話」という項に、この学校の校名の由来が書いてあった。
 それによると、「智辯」というのは、学園創始者である「大森智辯という女性の名前から取られたものだと云う。
 これは、れっきとした戸籍名とのことなので、「智辯学園」は智弁学園」と表記するべきではないという学園関係者からのお便りを紹介しておられた。
 とは云え、現在の常用漢字のなかに「辯」という漢字は存在しておらず、したがって、マスメディアも「智弁学園」と表記してるんだろうが……考えたら、失礼な話だよね。
 簡略字での表記はするべきではない、と学園側が言ってるのに、お国が勝手に定めた規則に従って、新聞もテレビも右に倣えの「智弁」表記だ。
 選手のユニフォームにも、スタンドの横断幕にも智辯学園とハッキリ書いてあるのに。
 そこは、学園本来の表記に従うところだろう。
 妙な規則に凝りかたまって、本来の漢字の使いかたを忘れちゃうと、ロクなことになんないと思うんだけどねぇ……
 
 お言葉ですが…〈2〉「週刊文春」の怪 (文春文庫)
 お言葉ですが…〈2〉「週刊文春」の怪 (文春文庫)
 

ルビと音とは違うんだな

 
 今日(2011.8.7.)付の朝日新聞天声人語」欄では、久々に首をかしげた。
 ようやく本格的な夏になった、という話だ。
 関東・東北地方では長い梅雨寒の期間があったため、夏の風物詩である(原文は正字しぐれが、ようやく最近になって佳境になってきた、とある。
 そして、梅雨寒の期間を指して、

 節電にはよかったが、赫々たる太陽も蝉(原文は正字)の声もなしではどこか寂しい。

 
 とある。
 
 問題は「赫々たる」である。
 ここに「かっかく(たる)」とルビが振ってあった。
 いまや、私のATOKですら「かっかくたる」と打ちこまないと「赫々たる」が出ないんだから、これが正解となってしまったのかもしれないが、やはりここは「かくかく(たる)」としてほしいところだ。
「洗濯機」のことを、口では「せんたっき」と言っていても、ルビを振るならば「せんたくき」であるように、「赫」の字の読みは「かく」なんだから、「かくかく(たる)」と振ってほしい。
 もちろん、口に出して読むときは「かっかくたる」で、いささかの問題もないだろう。
 ただ、文字の「読み」としては違うんじゃないかな、と思うのだ。
 
 そして、「赫々たる」の意味なんだが……主たる意味は「光り輝く」ということだ。
 この文章で取りあげられている太陽の様子──夏の、ぎらぎらした熱線を発する熱い太陽というのとは、ちと違うように思う。
 御来光のような太陽を表現するには適切かもしれないが、夏の暑さを表現するには、どんなもんだろうか。
 もうちょっと違う表現のほうが解りやすいんじゃないかなぁ、と思う次第である。
 
 ところで、上の文章で、いちいち「蝉(せみ)」は「原文は正字」とことわってきたわけだが、例の603字を書写して云々という勉強をしている人たちは、この字を正しく「正字」で書写しているんだろうか。
 なまじ字を知ってる人間ほど、「蝉」と簡略字体で書いちゃってるような気がする。
 学校での学習として書きうつしをしている場合、先生はちゃんとチェックするのかなぁ?
 そのあたり、なんだか、すごく興味がある。
 
 もうひとつ、ついでに。
 この「口での音」と「字のルビ」との違いについては、高島俊男先生のお言葉ですが…2「週刊文春」の怪』(文春文庫)に収録されている「テーコクリッカイグンワ…」に詳しい。
 なるほどなぁ……と膝を打って読んだものである。
 
 お言葉ですが…〈2〉「週刊文春」の怪 (文春文庫)
 

驚きの訃報でした。

 
 ゲーム史に名を残すであろうかたが亡くなられました。
 宮路 武氏
 45歳という若さでの死でした。
 
 ちょっと古いゲーマーならば、ゲームアーツという会社が作ったシルフィードという名STGの名前を記憶しているかたも、たくさんいらっしゃることでしょう。
 私自身、STGは苦手だったのに、このゲームだけはハマりまくり、さんざんプレイしたことを憶えています。
 このゲームの開発者が、宮路さんでした。
 宮路さんのゲームというジャンルに対する姿勢、新しいジャンルを切りひらくことへの熱意については、仕事仲間でもあられた遠藤雅伸氏のブログ記事に譲るとして、私は『シルフィード』や『グランディア』といった、ゲーマーとしての私を楽しませてくれた宮路さんのことを、ただただ悼みたいと思います。
 
 まだまだこれから、やってみたいこと、やりたいことがおありだったに違いありません。
 御冥福をお祈りします。
 

巨星、墜つ

 
 ついに……と云うべきか、小松左京御大が亡くなられました。
 享年80歳。
 
 すでに長老も元帥もいないSF界が、いよいよ代替わりのときを迎えたのでしょう。
 とは云うものの、替われるだけの人材がいるかどうかという点になると、はなはだ心許ない気がします。
 もちろん、何人かの光るかたがたはいらっしゃいますが、昔の──華やかなりしSF黎明期ほどに多くの人材がいるかどうかと云うと、ちと首をかしげざるを得ません。
 読者の側も、1年すぎるごとにSF者の平均年齢が1つ上がる、と云われているほどですから、お先まっくらとまでは言わないまでも、将来像が少々暗いような気がしてきます。
 
 しかし、小松氏はもちろんのこと、他のかたがたも多くの傑作、翻訳を遺してくださいましたし、現時点で活躍している人だって、いらっしゃらないわけではありません。
 御大や、その他の先達が燃やしてきたSFの火が消えることは、けっして無いでしょう。
 私も、書くことはできなくとも、読むことでSF界を応援していくことができれば……と思います。
 
 小松先生、どうぞ安らかに。
 御冥福をお祈りいたします。
 

603字では絶対、鍛えられねぇから。

 
 昨日(2011.7.26.)付の朝日新聞天声人語 603字で鍛える力」という記事が載っていた。
 
天声人語」筆写専用ノートを売り出したところ、20万冊超の大ヒット!
 小・中学校の「朝の読書タイム」を「書き写しタイム」に変更することで、子どもたちの読解力と集中力とが鍛えられる!
 高校・学習塾では、ニュースに関心を抱くきっかけとして、あるいは、論理的に考えて書く力を養うために推奨!
 企業では、新入社員にノートを配布し、多面的に物事を捉える力を育て、ビジネスに役立てるために!
 
 ……といった感じの記事で、要するに自画自讃記事なわけだがね。
 はっきり言うが、誕生したころ(100年以上前)の大阪朝日の主筆格で、天声人語の名付け親と言われる西村天囚翁あたりの文章ならばともかく、最近の「天声人語」を筆写したところで、読解力だの論理的な思考力だのは養われないと思うし、語彙が増えることもないだろうと思う。
 
 ひとつには、現在の「天声人語」を書いているのが戦後のベテラン記者だという点にある。
 新聞記者という職業を貶める気は毛頭無いが、新聞記事の文章とコラムの文章とは、その性質が違う。
 だが、最近の「天声人語子」(同欄の担当記者をこう呼ぶげな)が、そのことを心得ているとは思えない。
 私が、このブログで取りあげただけでも、字数を詰めるために「異を唱える」という成語を「異を言う」に書き換えたり、中国の古典から取ったという成語についてハッキリした出典を挙げなかったり、という具合で、無責任に書きとばしているという印象が拭えないのだ。
 これは、戦後(正確には、昭和末期ごろから)の新聞記事を書く際の規定に無意識のうちに縛られているから、こうなってしまうんじゃないかと思う。
 新聞記事を書く際の、使ってよいことば、いけないことば、また、ソースをはっきりさせるべきところ、させないところの差、などは、コラムを書く際のそれとは全く違うはずなんだが、どうも現在の「天声人語子」は、それを考慮に入れておられないと見受けられる。
 
 もうひとつ。
 実際に「書き写し」をしている中学生の感想として、
「写すのが速くなると読書も速くなった。数行ずつ(原文ママ)覚えて写す訓練をしているからだと思う」
 というのがあった。
 私は元来、「速読」というものに疑問を抱いている。
 実用書や啓蒙書の類ならば、速読にも意味はあろうが、小説や随筆を読むのに何故、速度が必要なのであろうか。
 私が中学生のときは、気に入った小説は、ほんの一語一文にも気を魅かれ、何度も繰りかえして読んだものだった。
 だが、この「読むのが速くなった」中学生は、その喜びを、これから知ることができるだろうか。
 ひょっとしたら、読書の森の入口に気づかず、そのまま歩みさってしまうのではないだろうか。
 杞憂と云われれば、それまでだが……
 
 まぁ、そもそも「天声人語」ってことばの意味からして、いいかげんなものらしい。
 今回の記事に、

天声人語」は「天に声あり人をして語らしむ」という意味。

 
 とだけある。
 ちなみに、私が私淑する高島俊男先生の著書『お言葉ですが…』に収録されている天声人語のネーミング的研究」という項によれば、1995年10月には出版されていた(高島先生が、この時期に取り寄せておられることより推測)『朝日新聞社史』に、

「天に声あり人をして語らしむ」という中国古典にもとづく

 
とあるそうだ。
 高島先生は、この一文に疑義を表しておられる。

 原文は「天有声使人語」? うーむ、愚生不学無術にして見たおぼえがない。ふつうに言う「中国古典」にはない語であり、ない発想である。天は物言わず日蝕地震をおこして意志をあらわす、ということになってるんだ。
 思うに、『朝日新聞社史』の「中国古典にもとづく」というのがアヤシイね。ほんとに出典があるのなら、「中国古典に」などとあいまいなことを言わず、ズバリ書名を示していただきたいものだ。

 
 しごく当然の感想であろう。
 邪推するのならば、高島先生のこの文章が発表されたから、朝日新聞社側で一所懸命に調べたけれど、結局のところ出典が見つからないから、「『天は〜』という意味」なんて文章でお茶を濁したんじゃないか、という気さえしてくる。
 出典がハッキリしないなら、相も変わらぬ、漢文書き下し的文章で意味を説明しなくても、いさぎよくシャッポを脱いで(これは死語だな)、高島先生の書かれた、

 元来「天声人語」というのは何もそう深い意味があるわけじゃない。単に「あちらの声やこちらの発言」「閑語雑談」というほどの意味だったのじゃないか、というのが、現在のところわたしの考えである。

 
 という文章を素直にお借りしておいたら良かったんじゃないかね。
 そうした他人の意見や、同欄への投書に対して真摯な姿勢を見せないのも、私が最近の「天声人語」を気に喰わない理由のひとつである。
 もし、子どもらの学校の「読書タイム」が「書き写しタイム」になったら、即座に新しく新聞を契約して「産○抄」とか「余○」とかを書きうつさせてやる、ぐらいの気概はあるつもりだ。
 もっとも、こうしてブログのネタを提供してくれるうえ(新しくカテゴリまで作っちゃったよ)、自分の日本語能力を確かめさせてくれるという意味では、感謝してるんだけどね。
 それはまぁ、新聞代で払ってるってことで、ひとつ(笑)
 
 お言葉ですが… (文春文庫)
 お言葉ですが… (文春文庫)